公民館ロゴ.jpg那覇市若狭公民館

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ブログ「公民館つれづれ日記」に掲載した記事をもとに、若狭公民館周辺地域の「歴史」「史跡」「文化」「民話・伝承」を紹介します。

歴史

若狭の歴史

若狭の歴史


キノコ岩.jpg 写真は浜比嘉島のキノコ岩(ナパ)もともと那覇の西側というのは、小さな島々が点在する岩礁地域でした。特に現在の奥武山周辺は海で、下部が波によって削られたキノコ岩(ナパ岩)と呼ばれるものが多くあったといわれています。この方言でキノコを意味する「ナパ」というのが、のちになまって「なーふぁ」となり、現在の「那覇」という言葉になったといわれています。

現在の若狭三丁目あたりから泊にかけては岩礁や塩田地帯であったといわれており、夫婦瀬公園(みーとぅじこうえん)には今でもその名残りの岩礁が、公園の中にそのまま残っています。

尚巴志王の時代、琉球国を統一した彼は、那覇港を中国などとの貿易重要拠点に定めます。そのおかげで、那覇の西側である久米や若狭地域には、数多くの中国人や本土の人間が移り住むようになりました。特に久米三十六姓と呼ばれる中国人たちが久米には数多く移住し、また若狭には本土からの商人などが移り住みました。

みーとぅじー.jpg 夫婦瀬公園の岩礁若狭という地名はおそらく本土からの居留者たちが名付けた地名のようで、狭い地域のことを若狭と呼んだようです。また現在の敦賀(福井県南西部)のあたりを若狭国、と呼んでいたようで、そこからの移住者が名付けたとも考えられます。いずれにしろ、昔から本土と中国と深い関わりがある地域だったようです。

1400年代になると、中国の明からの冊封使をむかえるために尚巴志王の三男であった尚金福王が那覇一帯に大規模な工事を行い、現在の久茂地から安里のあたりにかけて、長虹橋と呼ばれる海中道路が誕生します。これを作ったのは移住した中国人の懐機で、これにより那覇から首里へのルートが確立され、貿易港としての機能をますます拡大していったと言われています。

現在の若狭地域には、その名残りがいくつも見受けられます。このページでは、現在と過去を照らし合わせながら、若狭公民館の近くにある歴史や伝承を紹介していきたいと思います。


ウィリアム・ボード事件

ウィリアム・ボード事件


image.jpgみなさんはウィリアム・ボード事件をご存知でしょうか?

ウィリアム・ボードは、その昔、ペリー提督と一緒に日本にやってきた水兵の一人です。ペリーは日本に都合三度程やってきたのですが、その二回目の来日の時に、ボード水兵はレキシントン号という船にやって沖縄に来ました。

夜に他の水兵と一緒にこっそりと船を抜け出したボードは、泡盛を飲み過ぎて酔っぱらってしまい、なんと当時五十四才だったウミトゥおばあをレイプしてしまいます。

それに気づいた渡慶次カマさんをはじめとした何人かの沖縄県民がボードに石を投げながら追跡し、やがてボードは崖から転落して死亡。
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やがてそれを知ったペリーは怒り心頭、ボードを殺した渡慶次カマをはじめとする六人を引き渡せと要求します。(明らかにボードが悪いと思いますが、これはアメリカ側の言い分。そのころから日米関係は上下が決まっていた感があります)

結局、渡慶次カマには八重山流刑、他の者も宮古流刑の刑罰が言い渡されて、事件は一応の解決(しかし彼らに実際の刑罰が施されたかどうかは定かではありません)

そしてウィリアム・ボードの遺体は、泊にある外人墓地に葬られました。これが実際のウィリアム・ボードの墓標です。

この時に埋葬を手伝ったのが、ベッテルハイムという有名な宣教師でした。他にもペリー提督の部下だったものたちの墓が泊の外人墓地にはあります。
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(ここからは未確認情報なのですが、一つだけ墓標のない墓がこの中にはあるようです。ペリーの部下で病死したものなどの墓も残っているのですが、その中の一名は黒人水兵だったようです。その水兵だけ、墓標がないとのことでした。空いている場所にひっそりと葬られているようです。ここにも差別をはじめとするアメリカ文化のことが伺えて興味深いです。)

もともとは中国の人たちの墓地だったようですが(若狭周辺は久米三十六姓といって中国からの移住者が多い地域でもありました)、その後米兵を中心として葬られるようになっています。

これが最も古いと言われている中国人移住者たちのお墓です。

ペリー提督の昔から、日米関係というものはあまり変わっていないのかなと、そんな思いを抱いてしまいました。

そんな事件があったことを踏まえて、この泊外人墓地のウィリアム・ボードの墓標を眺めるとき、よく今までこの墓標が壊される事なく残っているなあと、しみじみ思いました。

行ってみるとわかりますが、このボードの墓標、隣の病死した水兵の墓標よりも一回り小さくなっています。おそらく不名誉な死に方をしたので、そのせいだとも言われています。左が病死した水兵の墓標、右がウィリアム・ボードの墓標です。

もし泊にいらしたら、琉球のそんな裏の歴史にも思いを馳せながら、ウィリアム・ボードの墓標を探してみて下さい。泊外人墓地は泊港のそばにあります。(小)

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史跡

三重城(みーぐすく)

三重城(みーぐすく)


image-15.jpgロワジールホテルのちょうど裏に、三重城(みーぐすく)と呼ばれる場所があります。16世紀に沖縄を荒し回っていた倭冦と呼ばれる海賊の見張り所として作られたと言いますから、歴史的にはかなり古いものになります。当時は砲台が設置されており、楚辺村にいた王農大親(オーヌウフヤ)という人物によって作られたといわれています。王農大親の一人娘は尚清王の妃であり、首里王府と深い繋がりがあったと考えられます。そのため別名「王ぬ大比屋城(おーぬうひやぐしく)とも呼ばれていたそうです。

現在はこんもりとした丘のようになっていますが、もともとは海の中をうねるようにして作られた海中道路であったといいます。現在は周囲が埋め立てられて、当時の面影はまったくありません。

当時この場所は新城(みーぐすく)と呼ばれていたのが、近代になって三重城と表記されるようになったようです。

この三重城には現代もウタキがあります。コンクリートが潮でやられてしまっていますが、現在でも礼拝する人が後をたたない、立派な拝所です。

またここは、別れの場所としても知られています。琉歌の花風(はなふう)に歌われた有名な場所でもあります。本土に帰ってしまう恋人を見送る女性の、別れの感情を表現した「花風」は、その後琉球舞踊にもなり、演劇の世界でも演じられるほど人気になりました。琉球を出て行く人々を見送る、そんな物悲しい思い出が沢山あったのでしょう。

現在の三重城の先端、海に向かうフェンス沿いには、溶けたヒラウコー(沖縄の束になった線香)がどろどろになっていましたが、ここも拝所になっているようです。一説ですが、ここの拝所は宮古島の方向へ向いており、先島、離島、宮古島出身者の方々が故郷の無事を祈る場所として現在も崇拝の対象になっているようです。宮古島の方々は信仰があつくて、線香もお供え物も山ほどするのが習わしのようになっています。この溶けたドロドロは、彼らの信仰の深さを物語っているのかもしれません。(小)

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   拝 所     /    三重城の先端部分    /    水 神

鄭大夫岩(ていたいふいわ)

鄭大夫岩(ていたいふいわ)


以前、鄭大夫(ていたいふ)のお話を少ししました。中国から移民してきた久米三十六姓と呼ばれる人の末裔で、武術の達人であり、大変慕われていた人だったそうです。

その鄭大夫のエピソードの中で、有名なものが「牛マジムン」と戦った武勇伝です。鄭大夫は赤い目をした巨大な牛のマジムンと夜通し相対しながらまんじりともせず、ついに夜が開けると、牛マジムンはガンと呼ばれる沖縄の棺桶に変化していたという伝承です。

image-10.jpgその、牛マジムン(要するに、牛の妖怪ですね)を夜通し組み敷いたと言われている岩が、この鄭大夫岩と呼ばれるものです。

現在はウタキ(拝所)になり、龍神様が祀られています。なんだか少し可愛い龍神様ですよね。

この場所は旧料亭・松乃下の裏にあり、過去の文献などでは唐真森(とぅーまむい)などと呼ばれている場所です。一説によると寄留民たちによる唐の国への遥拝所だったとも言われています。昔はうっそうとした森だったのでしょうが、現在では面影を少しとどめるだけになっています。

なおこの唐真森には、他にもジュリ(遊女)たちの開祖と呼ばれているウミナイビのウタキもあるのですが、それはまた別の機会に。(小)

辻開祖、ウミナイビのことなど

辻開祖、ウミナイビのことなど


若狭公民館の近くには、辻と呼ばれているエリアがあります。知っている方は知っていらっしゃいますよね。沖縄最大の歓楽街であり、現在ではラブホテルやステーキ屋などがある区画、といえばわかりやすいでしょうか。

その昔、辻には遊郭がありました。中国と冊封使などで交易していたころは、中国人たちの相手をし、薩摩支配が始まると、本土の武士たちの相手をさせられていたといいます。琉球政府にとっては、対外的に来客をもてなすという、政治的にも大変重要な場所だったのです。

image-47.jpgだいぶ前に、実際に辻で商売をされていた方と直接お話をする機会があったのですが、遊郭の人間は、穢れているはいるが高貴な存在であるという風な、世間とは一線を画した価値観を持ちながら生活していたとお話されていました。単なる売春とは明らかに違う意味合いと理由付けがあったようです。それは時代というものと切り離せないものなのでしょうが、しかしながらそこには遊郭に売られてしまった女性たちの、自分の運命を呪うよりはそこでたくましく生きて行こうとする態度の現れだったのかもしれません。

辻の成り立ち自体もいろんな説があります。首里の王妃たち三人が陵辱されてしまい、お城に帰れなくなってこの地にとどまったと言う話。それがウミナイビという辻の開祖となって、現在もウタキとして祀られています。城に帰れないので、このウタキから首里を拝んだそうです。

image-39.jpgもう一つの説は、沖縄学の大家、伊波普猷が唱えている説なのですが、辻の近くに龍界寺という寺があって、そこの住職は離れに女郎部屋のようなものを作って、女を使って金儲けをしていたといいます。前にお話しした耳切坊主の護道院を地で行くような、悪辣なことをしていたようです(残念ながら龍界寺の住職に妖力はなかったようですが)。

浦添朝満とも呼ばれる第二尚氏王統四代王の尚維衡の時代に、その妃である思戸金按司の侍女が、何らかの理由で龍界寺の住職に売春行為を強要されたといわれています。それが辻の始まりだというのです。私個人はこの説が正しいような気がしていますが、この辺りの見極めは歴史学者の方におまかせするとして。

このウミナイビのウタキは、前にお話ししたウシマジムンと戦った鄭大夫の岩がある唐守森に残っています。碑文にはそれぞれ、

image-43.jpgうないみやらびぬ里 辻開祖之墓image-44.jpg花の代 ウトゥダルヌメー 辻開祖image-45.jpg花の代 マカドカニヌメー 辻開祖image-46.jpg花の代 ウミチルヌメー 辻開祖
とあります。この三名が王女の名前だとも、侍女の名前だとも、いろんな説があります。

この近くは、ジュリ(遊女)たちの幽霊が出たとされる場所でもあります。いわゆる、ジュリマジムンと呼ばれる妖怪です。まあ現代の認識からすれば、妖怪ではなく、おそらく幽霊とジャンル分けされるのでしょうが、昔の人はジュリたちの亡霊を、ユーリー(幽霊)とは呼ばずに、マジムン(魔物)と呼んだ訳です。

現在でもジュリ馬行列などの伝統行事が残る辻近辺、様々な歴史が残る希有な地域でもあるのです。(小)

夫婦瀬公園

夫婦瀬公園


若狭のはずれに、夫婦瀬(みーとぅじ)公園というものがあります。昔は海でしたので、その名残で波に削られた岩がそのまま残っている公園です。その一角にウタキ(御獄)と呼ばれる地元の神様を祀った拝所があります。記載等はありませんが、海に近い場所に祀られたものは龍神様を祀っている場合が多いので、おそらくここもそうだと思われます。
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沖縄のウタキは、だいたい三つの神様を祀っている場所が多く、中心となるものを後ろから守るようにして、左右に二つの神様がおられます。中心にあるのは、多くが竜宮神(龍神)、もしくはその土地の神様で、左右に火ぬ神(ひぬかん)やビジュル(霊石)などが祀られてあります。

このウタキは夫婦瀬公園の中にあり、だれでも参拝する事が出来るのですが、沖縄のウタキの中には男子禁制の場所等も今も存在しています。(久高島のフボーウタキなどは、現在では島の限られた人以外、入る事を許されていません)。また世界遺産になった南城市の斎場御獄(セイファウタキ)などでも、昔は王様が参拝するのにも、神の怒りを恐れてわざわざ女装して入ったという話も残っています。

image-5.jpgまた夫婦瀬公園の中には、波に削られた岩が今もそのまま残っているのですが、このような削られた石が、じつは那覇市の「なは」の由来にもなったという説があります。

那覇の由来にはいくつも説があって、その一つに、波に削られたキノコの形をした岩があって、方言でキノコのことを「なーぱ」といい、その岩のせいで「なぱ」がなまって那覇になったという説があります。また他の説では「漁場」(なわば)であったせいで、「なわば」がなまって那覇になった、というものもあります。

どれが正しい、というのは学会でも確定されていないので、ここはみなさん、どうぞ那覇および若狭に実際に来ていただいて、ご自分の目で確かめてみる以外、方法はなさそうですね。(小)

文化

ユタと若狭と中国文化

ユタと若狭と中国文化


ユタって聞いた事ありますか?

ユタというのはハンジ(占い)をする沖縄のシャーマンのことを指します。いつごろからユタ文化があったのかはさだかではありませんが、沖縄の精神文化を語る上で絶対にはずせないのが、このユタとノロという存在です。

簡単にいえば、ユタというのは民間の霊能者的存在で、ノロというのは首里王府から任命された、儀式を司る女司祭といった感じになります。ユタは王府から認められていた訳ではないので、過去に迫害されたり、「時双紙(ときそうし)」と呼ばれる秘伝の巻物を焚書にされたりと、いろんな事件がありました。(その中心的人物だったのが蔡温という政治家でしたが、これはまた別の機会に)

とにかく、沖縄では「ユタコーヤー(ユタを買う事)」という言葉もあるくらい、ユタというのはポピュラーな存在でした。

ところが若狭公民館のある地域の、久米や辻と呼ばれる地域では、ユタというのはあまり迎合されませんでした。

image-4.jpgこの地域には、久米三十六姓と呼ばれる中国からの寄留者や本土からの移住者が多く住んでいる地域でした。そのため中国文化の影響が強く、占いと言えば中国式の易などが一般的で、ユタを買う、ということは忌み嫌われていたようです。

しかしながら、現在ではそのような中国式の占いはすっかり陰を潜めてしまいました。かわりに中国式の孔子廟などが今も残り、地域の人たちの礼拝の対象になっていて、中国からの観光客などでもにぎわっています。

若狭を訪れた際には、ぜひ中国文化あふれる孔子廟や久米至聖廟などにも足を運んでみて下さい。(小)

わかさの民話・伝承

仲西ヘーイ

仲西ヘーイ


image-26.jpg若狭公民館から歩いて十分程の場所に、潮渡川があります。昔の写真などを見ても、三つの橋が当時から架けられていて、海側から夫婦橋、若松橋、そして潮渡橋という順番になっています。なんていうことのない橋なのですが、その中の潮渡橋には、世にも恐ろしい妖怪の伝承が残っているのです。

大正時代に発行された比嘉春潮の「沖縄本島の神隠し」には、この橋にまつわる話が紹介されています。夜分、潮渡橋の近くで「仲西ヘーイ」(もしくは仲西ヤーイ)と叫ぶと、それは現れてくるのだと言います。仲西ヘーイの姿がどんなものか、人物なのか実態のないマジムン(妖怪)なのかは、定かではありません。ただ、そうやって潮渡橋に呼びかけると、そいつは現れるのです。そして仲西ヘーイを呼び出してしまった後は、大変です。名前から想像されるような、穏やかな妖怪などではないのです。

沖縄方言で「むにむたりーん」という言葉があります。標準語に直すと「ものにもたれる」という意味なのですが、この「もの=むん」という言葉は、沖縄で妖怪幽霊悪霊など全般をさす言葉、「まじむん」のむんと一緒なのです。つまり、何かに取り憑かれてしまう状態の事を指します。潮渡橋のたもとで、「なっかにし、へーい!」と大声で叫んだものは、このマジムン、仲西ヘーイに取り憑かれてしまうのです。

取り憑かれたものがどうなるかといえば、神隠しにあってしまうのですね。それについて書かれた記録を見て行くと、他の琉球妖怪であるヒチマジムンとの共通性なども見えてくるのですが、それをここで書くと長くなってしまうので割愛するとして、ともかく仲西ヘーイという妖怪は、凶悪な妖怪なのです。
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みなさん、決して潮渡橋のたもとで、「仲西ヘーイ」と大声で叫んではいけません!絶対に仲西ヘーイを現代に召還しないで下さい!(笑)若狭公民館では、絶対に責任持てませんよ!

現在の潮渡橋は、整備されて国道58号線になっています。リッチモンドホテルのすぐ側にあります。

その昔、仲西ヘーイという妖怪がいると恐れられた潮渡橋。現在は沖縄の流通、交通、生活をささえる重要な橋になっています。果たして、仲西ヘーイは実在するのかどうか。あなたは橋のたもとで大声で「仲西ヘーイ」と叫んでみる勇気がありますか?(小)

若狭の歴史と文化

歴史 

若狭や辻地域などの歴史に関することを紹介しています。
辻の遊郭からペリー、ベッテルハイムまで、この地域には様々な物語が潜んでいます。

史跡

歴史にからんだ名所旧跡なども、この地域には多く存在しています。それらを写真付きで分かりやすく説明しています。

文化 

辻には独自の文化が咲き誇り、井戸があり、それを拝む人々も多数存在していました。いわゆる拝みの文化と呼ばれるものです。
ユタやノロといった人たちはどういった役割を若狭の中で果たして来たのか。そんなことが垣間見える若狭の文化的風景をスケッチします。

わかさの民話・伝承

那覇や若狭地域に伝わる伝承を紹介しています。ミミチリボージ、鄭大夫と牛マジムン、潮渡橋と仲西ヘーイ、西町とワーマジムンなど。若狭地域には古い文化が残り、いろいろな話が伝わってきています。

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