本格的なハワイアンフラを楽しむサークル。メンバーの年齢層の幅が広く、健康づくり、生涯学習として楽しみながら活動をしています。日ごろの成果を地域へ還元しようとお祭りや敬老会などの地域活動も活発です。
公民館名 那覇市若狭公民館
サークル名 サークルアロアロ
代表者名 上原史子(うえはらふみこ)
活動人員 30名
設立年月日 平成4年(1993年)
活動日・時間 日・16:00~18:00
サークルの活動内容を教えてください。
<余興からのスタート>
サークル名の「アロアロ」はハワイ語でハイビスカスの意味。フラの講師であるホクオラ喜舎場氏に師事するフラサークルで、毎週日曜日に若狭公民館でサークル活動を行っています。2時間の練習は1時間、休憩を挟んで1時間という流れで、喜舎場先生の弟子(コーチ)から月1のレッスンがあります。そのほか中心的なリーダーメンバーは上原邸での自主トレがあります。
「自分の体調にあわせて無理をせずにやっています。どこか痛くても、踊っているうちに治って、元気に帰るひともいます」
活動はフラの練習を中心に、公民館まつりなどの発表、デイケアでの慰問。発表の場になるのでイベントへは喜んで参加しています。
若狭公民館の「アロアロ」が沖縄で第一番目のフラサークルです。サークルは50名でスタートし、これまで続いています。先生のサークルは熊本、久茂地公民館(現ほしぞら公民館)鹿児島、豊見城と各地に広がりましたが、それは「アロアロ」の成功があったからだと言われています。
サークルの魅力は?
<フラの踊り本来の魅力と健康づくり>
初期のメンバーの中には「フラをやって人生が変わった」「生きる力が湧いてきた」という声があり、サークル活動がスタートしました。フラの魅力は全身で表現することです。フラには祈りと踊りという意味があり、踊りの中に、歌のあら筋がみえれば踊り手の力量(上手い下手)がわかります。歌詞の通りに体で表現しています。相手がいなくても一人でもおどれて、台所など生活の場所でも踊れるフラは健康づくりにもピッタリ。
サークルの雰囲気をお教え下さい
現在のメンバーは30名。メンバーは女性が多いです。前は男性もいましたが、続きませんでした。最近は男性も魅力がでてきましたよ。みんな心がきれいです。
サークルの参加メンバーはどのような年代が多いですか
40〜90代と幅広いメンバーがいますが、60代が一番多いです。若い人はベリーダンスとかいろいろな経験を積んでほしいですが、60代以上の年齢になると、フラがあっていると思います。気軽に一人でも踊れ、年齢にあった踊りができます(肉体に負荷の少ない)。
サークル参加メンバーの地域はどちらですか(公民館付近か)
若狭だけでなく、首里、豊見城、小禄などいろんな地域の方が参加しています。サークルは年齢を問わず、遠近を問わず、希望者は受け入れています。
メンバーとはサークル外での交流もありますか?
<誉めることで、女性ならではの難しさを回避する>
フラはソロ以外に群舞もあります。群舞で踊るというのは難しいです。メンバーには目立ちたがりの人もいますし、踊りが合わなくなることもある。群舞で踊る時は「誰が上手、誰が下手というのがわからないほうがいいんですよ」と言って指導しています。
女性の人間関係は難しいですよ。メンバーも相談にくるときがあります。何名かで注意をするとサークルが嫌になってしまうんですね。そんなときは自宅でお茶を飲みながら、励ましたりします。「ここを直したら上手くなるよ」と言うとにっこりとして笑顔で帰っていきます。サークル以外で話すことでよりコミュニケーションを深めています。
<他の団体との交流>
デイケアにも喜んでいっています。与那原の依頼があったときに、踊りにいきました。
車いすのおじいちゃん(とはいえ上原さんより随分年下)が非常によろこんで、お尻を触りたいといいだして困りました。笑い話です。
色気があるといわれてもおばあちゃんだからね。はずかしい。うれしくない。
ウクレレサークルと一緒に公民館まつりの前夜祭に参加していました。
一度ね、生演奏でフラをおどるということになりました。先生がいるといいのですが、ウクレレもフラも素人や初心者ですと、舞台発表がうまくいかないところがあるので、このあたりは、現場の状況を見ながらやったほうがいいとおもいます。
今後の活動について
<100歳までフラやります>
私は「ぼけ防止」に毎日やっていることがあります。かかさずにやっているのはピアノの練習と日記を書くことです。日記は30年になります。
「100歳まで先生と一緒、フラと一緒、サークルのみなさまと一緒です」。
取材者名 上原史子(サークルアロアロ代表)
活動歴 23年
サークルに参加したきっかけをお教えください
<地域を支えてきた婦人会の存在>
腰痛による健康づくりが個人的なきっかけでした。腰痛改善のために新報カルチャースクールでフラのレッスンをうけていました。腰痛が改善して27年一度も腰痛は起こっていません。膝も強くなりました。古希の余興でフラをしたことがきっかけとなり、サークルを立ち上げました。私が元気でいるのはフラのお陰といっていいです。
<フラを通して、輝く人生を歩んでほしい!>
「古希の祝い」に1曲だけ5〜6名で踊りたいということになりました。フラの喜舎場先生から二ヶ月間だけ許可をもらって教えていただいたことがきっかけとなり、そのときのメンバー(生きていれば95歳くらいの方)が、どうしてもやりたい、続けたいと。その熱い思いからサークルを立ち上げることになりました。
当時、私は60代でした。フラを切望する二人の境遇をきいていくうちに、私の心に変化がうまれました。一人の人は旦那さんと息子さんを亡くして落ち込んで、自暴自棄になっていました。人生はこれでおしまいという極地まできていたというのです。もう一人の方は、娘さんを交通事故でなくされていて、二人とも気の毒な境遇にありました。
その気持ちを聞いたときに、この人たちを励ましたい!と。「フラをやって人生が変わった」「生きる力が湧いてきた」というのですよ。どうにかして、助けたいという一心で先生に頼みにいきました。沖縄にはフラは喜舎場先生のところしかなかった時代です。先生は忙しいということで、断られました。もっと体当たりして、ひるまないでほしいと懇願されました。そこでもう一度先生へお願いに行きました。「もし、だめだったら、解散しますから、と」体当たりしたんですよ。
先生が多忙でできないのであれば、お弟子さんをお願いしますと食い下がり、さらに必死にひと月に1回でもいいからと食い下がりました。
やっとお許しがでて、サークルを立ち上げることができました。
サークルを続けている理由/たのしいところをお教えください
<健康づくりが、20数年の楽しみに>
健康づくりで始めましたが、フラの師匠である喜舎場先生を尊敬し、フラに魅せられました。足でリズムをとり、腰でアクセントをつけ、指先までつかって物語を表現するのがフラです。
フラとの出会いは、私の腰痛からです。腰痛が酷く、近所の整形外科に入院したことがあります。医師から病気を治す薬はなく、痛み止めしか対策がない。あと半年後には車いす生活になるだろうと宣告されました。何か直す方法はないだろかと先生に聞くと、先生は腰をまわして、料理をしながら運動しなさいとアドバイスされました。
「腰を回す」ということでフラを習おうと、翌日には新報カルチャースクールを訪ねました。そこで教えていたのが、喜舎場先生です。先生は、髪の毛も黒々として、浅黒かったのでハワイからきている方と思っていました。
腰痛はその後治りました。27年になります。丈夫になった。膝も強くなった。その後は一度も腰痛はおこっていないです。中高年にはピッタリです。
友達はみんな杖をついているんですが、私は自分の足で歩いています。私は今年骨折をして、95%はもとにもどらないといわれたのです。来年90歳になります。残りの5%に希望をつないで、あきらめないでリハビリに励みました。食事以外はずっとリハビリに費やしました。手術の翌日には車いすで歩行。一週間で杖をつき、二週間で歩けるようになっていました。あせらないでいきましょうといわれました。先生もフラがここまで体にいいのかなと、いってくれましたし、僕もやろうかなと笑っていました。
サークルでの目標やモットーにしていること
<リーダーは環境を整えることが仕事>
私はサークルのリーダーという名前がついていますが、みなさまの小間使いだと思っています。カルチャースクールで習ったものを、サークルの皆さんにフラのポイントを伝える役目もありますが、あくまでパイプ役なんです。皆さんのお守り役です。
サークルは趣味の世界でもありますが、人間関係も出てきます。サークルの雰囲気を崩す人がいる場合は、率直に理由を尋ねるようにしています。喜舎場先生に言われた「やさしいだけでは、だめよ」という言葉がきっかけです。その一言から勇気を出して意見をいうようになりました。サークル活動を通して、私自身が強くなりました。先生とは100歳までやると約束しています。
公民館を利用して便利な所
<遠慮のない関係が好き>
公民館は便利な場所。近いこと、気軽にいける。普通は年をとると、どこでも遠慮するんですよ。90歳くらいになればスーパーでも並んでいて気を使う。もたもたしないように、財布も準備していつでも払えるようにと。病院でも気を使う。でも、公民館は気を使う必要がないさー。私にはつっかけでいけるような気軽さがありますよ。
みなさんが笑顔ですよね。
宮城館長も笑顔ですね。宮城館長が好きなんですよ。立ち上げたときから一緒になってやってきているので、館長は来賓席に座っているかたもいらっしゃたのですが、宮城館長はスタッフと一緒になって動いている。感心します。
公民館がなかったら、私はボケでいたとおもいます。
社交ダンス、洋裁、ハーモニカ 6つくらいサークルを立ち上げました。私は無知でした。あちこちサークルで人との交流することで、それまで100%人を信用するたちでしたが、社会は、実際はそうではないということを学びました。うまい具合に世渡りする人がいることを知りました。
公民館を利用して改善してほしいところ。ここを良くしたらいいのにと思うところ。
一階に図書館があるというのがいいですし、要望はないです。
史子さんヒューマンヒストリー
私は「白梅」、二高女で学んでいました。卒業したら、東京の大正音楽学校に進学する予定でした。その学校を卒業したらすぐに学校職員になれるよといって、先生は願書を書いて用意をしていたんです。
三才のときに母を亡くし祖母に育てられましたので、東京の学校へ進学するというと、おばあちゃんが泣いたんです。わたしはひとりになるんだねって。そこでわたしは東京にいかないといって願書を破り捨てたんです。
東京への進学をやめて沖縄に残った史子さん。しかし、故郷は悲惨な地上戦の場所となった。おばあちゃんもこの戦争で亡くなったんです。家族全員失いました。私ひとり生き残った。21歳でした。
戦前は松下町で暮らしていました。家族全員を戦争で亡くし、わたし自身も4カ所も怪我をして意識不明で運ばれました。目が覚めたら病室でした。身寄もなく一人生きることは史子さんにとってとても辛いことでした。「だから、早く死にたいとおもっていました。寝るときにどうか目が覚めませんようにと、胸に手をあてて眠りました」でも、朝になって目が覚める。生きていることが辛いことでした。はやく楽になりたいと。「生きているのに体からうじがわいたんですよ」これはね、(戦争のことは)死ぬまで覚えていますね。骨折の傷なんか、あの痛さに比べたらなんでもない。
爆風で吹き飛んでこまくも壊れました。耳を下にして倒れたんです。着ている洋服も全部ふっとんだ。考えられますか? 爆風で跳ね飛ばされた。鼓膜が壊れたというのは、無音になるのではなかった。大きな鐘の中にいるような、大きな雑音がずっと鳴り続ける苦痛を伴うものだった。大変です。史子さんだけが、どういうわけか生き延びた。おじさんが医者だったこともあったが、当時は無料で治療をうけることができた。耳はすこしづつ聞こえるようになった。
「ここにね(上腕)、体に入っていた弾丸の破片がとれました。不思議なことに戦後50年目でした」戦争の映像をみるとテレビのチャンネルも変えます。思い出すことは辛いことです。沖縄戦から70年。振り返った史子さんは「でも、いまが青春です」と、堂々と語っていました。100歳までフラをやりつづけるという目標を持っています。
取材日:2015 年12 月16 日担当:鳥越一枝