対談 公民館のあしたを考える。(前編)

対談 公民館の明日を考える。〜臨床の現場の取り組みに学ぶ

臨床の現場で活動されている上原耕生さん、西川勝さんをゲストにお迎えして、「つどう・まなぶ・むすぶ」をキーワードに、対談していただきました。

袋田病院とは?

上原:上原耕生と申します。那覇出身で美大進学を機に県外に移り住んで、縁あって茨城県にある「袋田病院」という精神科病院で務めています。病院の中で造形活動や、地域を巻き込んで病院を開

いていくというアート事業を担当しています。
大子町は、福島県と栃木県に隣接している東北の入口、関東の最北です。人口は16,000人。65歳以上が45,7%。85%以上が山岳地帯。山奥にあって川が綺麗な環境です。精神科で床数は120床の小規模病院です。そんな中でアート事業や、畜産、自然農法や農業セラピー、森林セラピー、アーユルヴェーダなども行なっています。院長がユニークな方で、手広くチャレンジしているという病院です。敷地の中には、新棟と古い病棟があります。旧病棟は、築40年くらい経つ古い建物です。就労を目的にした活動を行なう施設としてアミーゴ牧場や、デイケアを行なうアトリエホロスという施設があります。

ぼくの拠点になっている場所は、アトリエホロスです。2011年から勤めて9年目で、アート事業を担当しています。造形活動は、院長が2001年から始めていて、通院している患者さんたちも来て、制作活動などのプログラムを行なっています。ぼくが務め始めてからアートフェスタが行なわれるということになり、ぼくがディレクターをすることになりました。フェスティバルをイメージして病院を開いていこうという試みで、職員のみなさんと共同して行なわれることになりました。

無機質な病棟を展示空間に見立てる

上原:次に、袋田病院に置かれた環境をどう開いていくか、ということについて3つのポイントからお話していきます。1つめは、白くて無機質。新病棟の診察室なんかは特にそうなんですが、真っ白い空間でノイズがない。カーテンや時計など、目に映るのを排除すれば、診察室をギャラリーに見立てて、展示空間の様になる。殺風景な病院のイメージが変わるのは面白いかなって。新病棟をどう使うかという、今年の具体的な例で言うと、アミーゴ牧場という就労支援の施設で大量に出る牛の飼料袋を再利用したエコバックの開発を行なっています。将来的には、売上げが利用者の収入に繋がればいいなと考えています。

閉鎖病棟を開く

上原:2つめは閉鎖的で古い病棟。40年前に建てられて建替えるお金がないからそのまま残っている旧病棟。当時は、薬が改良されていなくて、患者さんが何年も病棟にいることもあったそうです。イライラして壁を殴ったり、ケンカが起こったときの傷痕が現在でも残っていて、看護師さんたちはその痕跡を見て、当時の様子を語るんですね。

そうした物語や歴史を作品としてみせていくこも旧病棟では意識的にやっています。例えば、隔離室を作品として公開したり、当時の配膳の様子を再現した作品ですね。入院していた人たちがどういう風に活動していたのかというのを、視覚的に表現することで、当時の精神科の歴史や時代背景がみえてくるかと思うんです。社会で生活しているとなかなか見ることができない側面を提起する上でも、精神科病院の歴史も、展覧会のひとつの大きな意味と捉えてみせています。旧病棟は場所の意味合いが強いので、いろいろ難しいところもありますが、新病棟と違った展示の仕方、みせ方ということを工夫しています。

不便性を活かして

上原:3つめは、山に囲まれた片田舎で、都内からアクセスが悪く、人もなかなか来にくい点。大きな病院じゃないので展示の場所も限られている。山奥ならではの地の利を活かして、屋外で展示やワークショップを企画しました。

アトリエホロスの裏手にある森にテラスをつくって、カフェを実施しました。施設からカフェテラスまで、20mくらいのロープで繋いて、お客さんが塩ビのパイプを通して注文をすると、渡されたロープの向こうからバスケットが下りてきて、注文したものがやってくる。あそびとカフェとが融合した仕掛けを通して、遠くの利用者さんたちとコミュニケーションがとれます。

屋外でのステージでは、音楽を通して、患者さんたちはいろんな人たちと交流します。地域の高校生によるブラスバンドが来て、利用者さん、患者さん、そして職員が一緒にセッションをしたり、バンド演奏をしています。「関係性がぐちゃぐちゃ」になる空間を意図的につくっています。
広報も工夫しています。「非日常口」と書かれた風刺的な看板や、恐竜を模したブルーシートの看板などをまちなかに設置してPRしています。「精神科病院が地域に出て行く」、「地域の人たちを招き入れる」という、それまでは非常識と言われてきたことですが、7年経つと少しずつ定着してきたかなと思います。アートフェスタを通して、精神科病院というものを体感的に感じてもらうことができてきているのかなと思います。
以上です。ありがとうございました。

看護師、そして臨床哲学プレーヤーへ

西川:ありがとうございました。まずは上原さんの活動を紹介してもらったんですが、ちょっと西川の自己紹介もしたいと思います。精神科の看護助手から始まって16年、閉鎖病棟で勤めていました。それから血液透析の現場、高齢者介護の仕事をして、40代から大阪大学の鷲田清一先生とこで臨床哲学を学び始めました。ずっと臨床現場で看護師をしていたんですけど、どうも自分の目の前にいる人と関わるときに、医学・医療だけでは無理だって思ったんです。そのとき、鷲田先生の本に出会って、「今までの哲学はしゃべりすぎてた。これからは聴く哲学をしたい」って書いてありまして。臨床が哲学っていうものともう一度出会わないと、目の前にいる人との話ができない。それで臨床哲学を学び始めたんです。哲学って智を愛する(フィロソフィア)ってことなんですね。まだ何も知らないけれど、知りたいっていう強い気持ち。一人じゃなくって誰かと一緒にするのが「臨床哲学」。それで臨床哲学プレーヤーっていう風に自称しております。
それから大阪大学で「臨床コミュニケーション」を担当する特任教員を11年ほどやってたんですけど、3年くらい前に期間が終了。認知症ケアの研究してましたんで、「認知症の人と家族の会 大阪支部」からお呼びがかかって、ボランティアで世話人やっていたんです。そのうち、支部代表がいなくなったので、今年度からはぼくが支部代表してます。ちょうど大阪市が認知症の人たちの社会活動を推進(※1)する事業を始めたんです。認知症の本人・家族に主点を取り入れたことをしなさいって。大阪市も、認知症の人が主体になって社会活動するようなセンターを、どうしたらいいか分からないってことで相談があって、事業委託を受けて始めたんですね。それが今のところ、現在です。

(※1)認知症の人がいきいきと暮らし続けるための社会活動推進事業

精神科病棟の現実~30年前

西川:上原さんの話聞いてて、いろんなこといっぱい思い出しました。今年63歳になりますけど。19~35歳まで精神病院の新館って言われてるところに務めてました。それは戦後すぐに建てられた病院で、ぼくが19歳で就職したときには20数年は経ってました。堺刑務所って大阪にある刑務所を設計した人が設計した建物です。木造なのに、高い塀と何重にもかけられた扉を開けないと病棟の中に行けない。15年間務めましたが、病院で働いている人間以外が病棟に一歩も足を踏み入れたことはありません。患者の家族も、地域の人ももちろん入れない。精神医療の暴力性みたいなことを働きながら感じていましたので、何とか開放したいと思っていました。何にしても、ものすごく規則だらけです。私物はほとんど持てない。お箸も先の尖ったお箸はだめ。食事のたんびに配っては回収する。全部数を数えるんです。もし、ポキッと折って武器になったらいかんからってことですね。自由を束縛して、社会の人たちから隔離収容していた。ぼくが20歳のときに、ぼくが生まれる前からその鉄格子に暮らしている人が半数以上いました。その人たちは、一歩も外に出てませんよ。
若い看護士たちで、病院を開放化していかなきゃいけないということで、院外ショッピングを計画したんです。何年かかったと思います?7年かかりました。それも、みんな丸坊主で、名前のついた服を着て、病院の中のまんまの姿です。地域の人たちは冷たい目で見る。そんな不十分な仕方で地域に出て行くということですらも、7年かかりました。それから、患者さんの在院日数があまりに長過ぎる、国際的にみても非人道的やということもあって、社会復帰の施策がとられるようになって、開放病棟をつくる計画をしたんです。けれども、地域住民の猛烈な反対で潰れてしまいました。これ、今の話じゃないですよ。ぼくが20~35歳のときだから、もう30年近く前の話です。でも、今もそれほど大きくは変わっていません。
昭和30年代くらいから向精神薬が出てきたんですけどね。その分、心理学的な相手の心を理解するというのはね、精神医療から消えていったんです。精神科医療と言いながら、臨床心理士なんかがなかなか入れなかったのは、薬飲ますのに必死やったから。一般社会とのつながりが一切ない、閉鎖病棟の実態。これは、今現在もあります。それに、認知症の方の精神科病院への収容っていうのも、今、進んでいます。人が生きていく上で隔離、人とのつながりが切れるということは、どれだけ人間の尊厳を失うことなのかっていうこと。それを回復するときに、どこか一定の専門家では成し得ないんですよ。病気が治ったかどうかは、精神医療者の判断。それだと、いつまでも患者で、医療に乗っかった人でしかいられない。

医療の文脈とは違うカタチで社会との接点をつくる

西川:この袋田病院みたいな取り組みをされているのは、本当に稀です。精神医療をより高度にするために、精神科医の優秀な人とか、認定看護師や心理学者を入れるだとか、精神医療の中のエキスパートを入れるところは山ほどあります。でも、現代美術家を雇うっていうのは、初めて聞きました。全く医療の文脈とは違うカタチで社会との接点をつくるというお話聞いて、すごいなぁと思いました。
ぼくの勤めていた男子病棟に、保護室(隔離室)で病院生活の半分を過ごしていた人がいてね。人格的にも荒廃してしまっていて、言葉でのコミュニケーションもなかなかとれなかったんです。社会復帰の可能性ゼロ、とにかく病棟の中で事件を起こさないように行動を監視する、そんな風にしか思ってなかった患者さんがね、鉄格子の外で遊んでる子どものことを見て、「かわいい」って言ったんです。その人の心の中にうまれてきた何かを、たまたまぼくが通り過ぎたときに声に出して伝えたんですよ。相手の心の中って、表現されないと見えないと思うんです。その表現が扉なんですね。でも、「あの子、かわいいな」って言葉は、医療のところでは乗っからないんです。他のさまざまな問題行動だとかがカルテには書かれる。けど、アート、表現活動の専門家が入ってくると、全く違った文脈でその人の可能性とか、可能性の表現とかが一般の人たちへの関心に広がって深まっていく。精神医療のズブズブに生きた人間にとってはですね、表現活動を通じて地域の中に出て行く、入っていく、地域の人たちを巻き込んでいく、上原さんの活動をみてですね、すごいなぁとまずは感心しました。

2020年1月18日
対談:公民館のあしたを考える。〜臨床の現場の取り組みに学ぶ〜

上原耕生(うえはらこうお)
1982年沖縄生まれ。2010年東京芸術大学大学院先端芸術表現専攻修了。美術館やギャラリーといった既成の展示施設ではない団地の壁や、道路の高架下、廃校になった各地の小学校や商店街で制作や発表を行なっている。2011年より造形スタッフとして袋田病院アトリエホロスに勤務。年に一度精神科病棟を開放し、利用者や職員らと共に創るアートフェスタの企画運営(ディレクション)を行なっている。

西川勝(にしかわまさる)
1957年大阪市生まれ。看護師として働きながら哲学を志し、臨床哲学の活動に参加する。その後、大阪大学で特任教員として11年間、臨床コミュニケーションデザインの研究教育に携わる。現在は(公)認知症の人と家族の会大阪府で活動中。